音楽に寄せて 

街のピアノ講師が日々思っていることを綴ります

巨匠は余裕~《ミハイル・プレトニョフ ラフマニノフピアノ協奏曲全曲演奏会 第1夜》

プレトニョフのピアノによる、ラフマニノフピアノ協奏曲全曲演奏会の第1夜に行ってきました。

ピアノはShigeru Kawai

 




プレトニョフの演奏は2月のソロリサイタル以来、今回で2度目。

その時は「巨匠は自由~」というタイトルで書かせていただきましたが、、

 

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今回プレトニョフのピアノを聴いて思ったことは、タイトル通りですが、

「余裕のある演奏だ」ということ。

 

技巧的なところ、難しいパッセージを、なんてことなくとても自然に弾いている。

 

これ、とんでもなくめちゃくちゃ上手い!ってことですから!!

 

若いピアニストたちが一生懸命、時にはピアノにしがみつくように弾くところを、

ごくごく自然に、かつ美しく弾いているのです。

 

ピアノに限らずですが、難しいことを難しくないように見せる、聴かせるのって、

それだけの技術がある、持っているということです。

ザ・巧みの技。

 

私は思いました。

「そうかぁ、巨匠にもなると自由なだけでなく余裕なんだなぁ」と。

 

余裕があるから、あれだけ自由にもなれるんでしょうね。

 

プレトニョフは、あれだけの高い技術を持っていながら、決してひけらかした演奏をしません。

確固たる技術があるからこそ、そんな必要はないことを当然知っているのかもしれません。どこまでも自然体。

だから余裕がある。自由な演奏も可能。そして芸術的な音。

音が生きているんです。生命力のある音。

 

 

 

 

音色に関しては言わずもがな、多彩で、響きを操るのがやはり巧み。

毎度毎度ざっくりな感想で申し訳ないですが

決して独りよがりの独奏ではなく、オケと響きが溶け合って(協奏曲なのだから当然と言えば当然ですが)、オケと一緒に、一体になって音楽を創っている。

プレトニョフがピアノソロで主役ではあるけど、主役感が良い意味であんまりなかったです。(個人の感想です)

私は協奏曲を聴くとき、そういう演奏の方が好きなので、そういう意味でも素晴しい演奏でした。

 

1番は2番ほど有名ではないけど、良い曲なんですよ。かっこいい。

そして大好きな2番は久しぶりに生で聴いたけど、やっぱり何度聴いても良い曲!!

3番も好きですが、より好きなのは2番。ベタだけどラフマニノフの2番は大好きです。

特に2楽章。

「こんなにも美しい曲がほかにあるだろうか?」という曲はたくさんありますが、

そんな1曲であり、断トツのひとつだと思います。

いつも、この2楽章を聴くと、あまりの美しさに泣きそうになります。

今回もやはりやられました(笑)。

 

協奏曲を聴いているときいつもいつも思うのは、オケの響きの中で一緒になって弾いたら、ものすごく楽しいんだろうな、ということ。

この2楽章なんかは特に。

弾きながら感動して泣いちゃいそう。。

 

 

ラフマニノフの音楽って、一見ロマンチックで感情的なようで、実はそうじゃないようです。

よくよく聴くと、明るい音楽、というよりかはどちらかというとどこか暗め。

悲哀という言葉が思い浮かびます。

でもそれが魅力なのです。

 

 

話が少し逸れましたが、、

アンコールは、なんと、いままさに自分が練習中の1曲で、驚きました。

実はひそかに、「アンコール、弾いてくれるかなぁ。もし弾いてくれるなら何弾くんだろう??(自分が弾いている)あの曲弾いてくれないかな。どんな音色で弾くのか興味あるし」なんて思っていたので。。。全っ然期待してなかったけど。

まさかホントにどんぴしゃだったのでびっくり!こういうこともあるんですね。

 

この曲はプレトニョフは結構あっさり、淡々としていました。左手はささやくようでしたし。

私は、ロシアの雄大で広大な土地と情景(行ったことないけど)をイメージしていたので、自分とはイメージが違うんだなと思いましたが、歌わせ方なんかは参考になりました。

テンポが楽譜に書かれているよりも速めだったので、余計にあっさり聞こえたのかもしれません。

 

3番4番を弾く第2夜は、仕事で残念ながら行けないのですが、超難曲!と言われる3番を、約1週間後に弾いちゃうなんて。

というか、協奏曲を1度に4曲も弾くのがやはりすごいですね。

プレトニョフ氏にとっては「訳ないさ♪」という感じなんでしょうね。巨匠。。

 

 

ピアノの演奏を聴くとき、動画でも生の演奏会でも、ついつい手元(やペダリング)を見ちゃいますが、個人的にはぜひ、弾いているときの姿勢やからだの使い方にも注目してみることをオススメします。

 

ピアノは、指だけで弾くものではないんだ。からだ全体を使って弾くんだ、ということがわかります。

上手い人ほど無駄な動きが一切ないです。プレトニョフもそうで、ほとんどからだが動いていなかったなぁ。支えがしっかりあるから、その必要がないのでしょう。

 

 

プレトニョフの演奏を聴いて、こんなにも素晴しい音楽を、素晴しい演奏によって私たち聴衆に伝えてくれて、この世に音楽があることに感謝せずにはいられない。

そんなふうに思いました。

 

 

現代最高のピアニストの1人であるプレトニョフ

機会があればぜひ聴きに行ってみてください。

その芸術的な音を聴くと、ピアノという楽器の新たな魅力を教えてくれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「美しい音」で弾くために一番大事なこと

ピアノを「美しい音で弾きたい」と思っている人は多いですね。

 

では、今回のタイトル「美しい音」で弾くために一番大事なことって、何だと思いますか?

 

技術?筋肉?奏法を変えること??「良い」ピアノで弾くこと???

 

どれももちろん大事ですね。

 

確かに技術がなければ「美しい音」で弾くことはある意味難しいかも知れません。

筋肉も、もちろん大事です。

奏法を変えることは、自分にとって必要なら変えることも有りでしょう。

「良い」ピアノで弾くこともある意味では大事なことです。

(しかし、「良い」ピアノであればあるほど、技術が必要なのは言うまでもありません)

 

 

私個人の考えではありますが、もっとも大事なのは

「良い音」と「本当に美しい音」の違いがわかる耳を育てることと、

「美しい音」を出すその前に明確にイメージしていることです。

 

「良い音」で弾いている人はわりと多いですが、「本当に美しい音」で演奏している人は案外少ないので、それらの音の違いが、何がどう違うのかわかることも大事です。

 

また、どんなに技術を磨いても、奏法を変えても、また、筋肉をつけても、

ピアノを弾く人自身の内側に、「美しい音」に対する明確なイメージがなければ実現できません。

 

 

 

「良い音」と「本当に美しい音」の違いについては、それを明確に示してくれる先生に習うのが良いでしょう。

 

重要なのは、音を出す前にすでにイメージすることです。

 

私が思うに、魅力的な演奏、美しい音で弾いている人というのは、共通して

実際に弾く前に、すでに明確なイメージを持っています。

 

 

内的聴覚が出来ている(出来ているという表現が正しいのかわかりませんが・・)のです。

 

この、「弾く前に」(音を出す前に)というのがとっても大切です。

 

自分はこれからどういう音で弾きたいのかが、自分で分かっている、という感じでしょうか。

 

 

ピアノを弾くということは、弾く人の内側をピアノという楽器を通して表現することだと考えています。

 

ですから、もし本当に「美しい音で弾きたい。弾けるようになりたい」のなら、

自分はどんな美しい音を出したいのか、自分でわかっていなければなりません。

 

だって、どんなに指導力のある先生についても、実際に弾くのはあなたなのですから。

 

 

世の中には、びっくりするくらい本当に素晴しい音で奏でるピアニストがいます。

YouTubeで手軽に気軽に演奏を聴けることは大変有り難いことではありますが、

できるだけたくさん、生の演奏に触れること。

ピアノ以外の楽器から学ぶことも多いので、それらの楽器を知り、曲も聴いてみること。

また、ピアノに触れることだけが上達につながるわけではないので、絵画を観る、本を読む、自然に触れるなど、自分自身の内側を豊かにする経験をたくさんすることも大事です。

 

 

ちなみに、「良いピアノ」で弾くことですが、それよりも、アップライトであろうが、何年も調律をしていないピアノであろうが、古いピアノであろうが、また電子ピアノであろうが、

いま目の前にある楽器が持っている最大限に美しい音で弾こうという意識で弾くことは大事だと思います。

私自身は学生の頃からそのような意識で弾いていましたし(音大出身の人ならわかると思うのですが、大学の練習室のピアノってみんなガンガンに弾くから良い状態のピアノに当たることって稀でした。というかほぼない?!)、今の先生からもそのように教わっています。

ピアノ奏者は自分の楽器を持ち運べないからこそ、この意識はとても大切ですね。

 

やはりここでも、弾く人の意識、内側が大切なのです。

 

 

ピアノと向き合う時間も、そうでない時間も、自分自身の内側を豊かにする、しておく。

 

私自身がこれからもずっと大事にしたいことです。

 

目的を持って練習する

お久しぶりです。

この夏はとにかく暑かったですね。。暑くて、休みの日はほぼ引きこもり状態でした。

YouTubeの料理動画にハマり、いろいろなチャンネルの動画を見まくっていました。

料理動画、面白いですね。沼です。

 

 

さて、今日は「目的を持って練習する」ことについて。

 

ゆっくり練習の大切さを分かっている人は多いようですが、単純に「ゆっくり弾くこと」が目的になってしまうケースをよく見ます。

 

指導する側も、ついつい「ゆっくり練習してきてね」とだけ言ってしまいがちなんですが、ちゃんと、生徒さんには「これこれこういうことができるようになってほしい」から「ゆっくり練習」を課するのです。

 

それは、ひとつひとつの音をよく聴けるようになるためであったり、音楽とからだの動きが一体になるようにするためであったり、ハーモニーの変化を感じながら弾けるようになるためであったりです。

 

ちゃんと目的があるんですね。

 

ひとりで自宅で練習するとき、ゆっくり弾くことが目的になっていませんか?

 

単純にそれだけだと、せっかくのゆっくり練習の恩恵が受けられません。

無駄になってしまいます。

 

一回弾くごとに、ちゃんと目的意識を明確に持って弾くこと。

そうでないと、無駄に音を出していることにもなります。

 

ゆっくり練習だけでなく、

なぜ先生はこういう練習をしてきてと言ったのか?

なぜ今この練習曲をやっているのか?

 

それらをちゃんとわかって弾いているでしょうか?

 

「先生が言ったから」「先生に言われたから」と自分の頭で考えないでいると、それは音楽にはなりません。

 

自分の頭で考えて、理解して、感じて。

 

最終的には、全部自分でやることです。

 

いつでも、音を出すその前に、明確な目的を持ってピアノに向かいましょう。

 

8月ももう終わりですね。

まだまだ暑いとはいえ、陽射しや空気が少しずつ秋めいてきて、芋やかぼちゃのシーズンだ♪と、これからが楽しみであります^^

皆さま、引き続き体調にはお気をつけて。

ファッションモデルとピアニストの共通点

以前、林修先生の「林先生の初耳学」という番組が好きで毎週のように見ていました。

その中で、今もあるのかわからないですが(見なくなってもう何年か経つので)、タレントのアンミカさんがモデルの卵を育ててパリコレに出演させる、というコーナーを興味深く見ていました。

 

私はその昔、モデルの仕事の意義が全然よくわかりませんでした。(モデルの方、すみません。。)

服を着て、歩いているだけで(すみません)、「これで仕事??」なんて思っていたのです。(・・・)

 

でも、アンミカさんのモデル育成の様子を見て、ようやくモデルの仕事の意義を知ることが出来たのです。

 

 

モデルは、服を美しく見せるのが仕事なのだと。

 

その服を理解し、どのように着こなしたらその服が美しく見えるか。

だから「自分」はいらない、と。

 

これを知ったとき、「あ~、ピアノと同じだ」と思いました。

 

 

あるピアニストの方が、これも何年か前にツイッター上でつぶやいていたのを覚えているのですが、その人は

 

自分というものを限りなくゼロにしていくのが最終的には目指すところ

 

とありました。

 

私自身も、「人が見えない演奏」が好きです。

 

音楽が優先されている演奏、というのでしょうか。

弾いている人のエゴを感じない演奏が好きです。

 

 

モデルも、ピアニストも、服か音楽かの違いがあるだけで、実は目指しているところは共通しているんですね。面白いなと思いました。

 

モデルさんは、自分がショーで着る服をよく理解しようと努めるのでしょう。

素材は何か、どう着ればこの服は美しく見え、見ている人に魅力が伝わるか。

 

ピアニストも同じです。

曲を理解し、その曲の音楽の素晴らしさを伝えることが仕事ですから。

 

私は、自分はピアニストではないから、その境地にいかなくてもいいんじゃないか、とずっと思っていました。趣味の部分を残しておきたかったし、そうじゃないと続かないと思っていたのです。

 

でも、最近は考えが少し変わってきました。

ピアニストではないけど、目指してみようかと思い始めています。

 

理由のひとつは、演奏が承認欲求になってしまってはいけない、と思うからです。

 

自分というものを認めて欲しいがためにピアノを弾くのは、何か違うなと思うのです。

人間ですから、時にはそのように間違ってしまうこともあるかもしれません。

でも、自分が好きな演奏を、自分で体現できるように目指してみようかなと。

 

舞台上で、自分というものを限りなくゼロにして、ただただ音楽だけがある演奏

 

いつか、その境地にたどり着けるよう、頑張ってみます。

 

 

 

 

 

自分を受け容れる

前回の記事の補足です。

 

 

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この中で、緊張しやすい人は、自分に対する自信のなさや自分への信頼感の低さが原因だと書きました。

 

これを読んで何かモヤッとした人、いるかもしれません。

 

ただ、私自身、本当に過緊張であがり症だったのでわかるのですが、緊張しやすい人はほぼこれが当てはまると思います。

 

ここを受け容れることが出来るかどうかが、鍵かなと思います。

 

私はずっと、そんな自分を見て見ぬふりをしてきました。

気づいていたんです、心の奥底では自分に自信がないんだということに。それが緊張のしやさすさにつながっているのだということに。

 

でも、そんな自分を認めたくなかったんです。

そんな自分を真っ正面から見るのが怖かったんだと思います。

 

しかし、いつまでも逃げていては、根本的なことは解決しません。

1度腹をくくって、真っ正面から自分と向き合い、自信のない自分を受け容れましょう。

 

やってみると思ったよりも難しくないものです(個人の感想です)。

 

 

「私は自分に自信がないんだな。自分をまだ信頼できていないんだな」と、受容します。

 

抵抗がある場合は、それも受け容れる。

「私は、自分は自信がない、ということを受け容れることに抵抗を感じているんだな」と。

 

緊張を感じているなら、それも受け容れます。

「私はいま、緊張しているな」と。

 

 

私は、自分が感じていることを受け容れることなしに生きることは、すべてインチキだと思っています。

 

本当は心の奥底で思っているのに、それを見て見ぬふりをすることは、自分を本当に意味で大切にしていない、ということになるからです。

そういう人は、本当の意味で他者をも大切にできないのです。

 

でも、現代人の多くが、そういう人であふれています。

そんな自分(インチキの自分)に気がついていない人が圧倒的多数です。

 

 

ジャッジすることなく、ただただ自分を受け容れる。

 

その作業は、時にキツかったりしんどかったりするけど、ここを通ることなしに、本当の意味で豊かな人生というのはありえないんじゃないかなと思います。

 

 

ピアノを弾くということは、ことごとく自分の心と向き合う作業だと改めて思いました。

 

 

 

 

自分を信頼する

ピアノを弾きながら気づいたことがあります。

 

それは、「自分を信頼する感覚」というのが、ピアノを弾くうえで非常に大切なのではないか?ということに。

 

 

「自分を信頼する」

 

これは、弾いている時のからだの(内側の)感覚だったり、また、自分の音楽に対する信頼感だったりします。

 

 

ピアノを弾くうえで、(手の平の内側の)支えというのがとても大切なのですが、この支えができてくると、それが弾いているときのからだの感覚に対する信頼感につながっていくのです。

 

この支えができるまでは非常に時間がかかります。

人によってピアノに向かう時間は違うので、その向き合う時間の長さにも関係してきます。

また、練習の仕方や弾き方(奏法)によってもそうでしょう。

私は3,4年かかりました。

 

 

最低限の支えができて、さらに数年経つと、その時とはまた違う、新しい感覚が出てきます。

これはもう、経験していただかないとわからない感覚で、うまく形容できなくて申し訳ないのですが、とにかく自分の手に対する信頼感、安心感が出来てくるのです。

 

ピアノという楽器で、P(ピアノ)やPP(ピアニッシモ)などを美しい音で弾くのは大変難しいですが、この自分の手に対する信頼感が育ってくると、不思議とPで弾くことが怖くなくなります。

怖くなくなるので、からだに不必要な力みや緊張がなくなるし、よって音も美しい音で弾けるのです。

 

 

また、自分の音楽に対する信頼感。

 

これもまた文字で表すのは難しいですが、自分がその曲に対して感じていることを信頼する、とでも言ったらいいのでしょうか。

そんな感じです。(アバウトですみません。。)

 

これもある程度経験を重ねていくことが必要かなと思います。

 

人前で演奏するとき、緊張しますよね。

私もめちゃくちゃ緊張強いであがり症で、学生時代はもう本当に悩みました。

 

「緊張しないようにしよう」と思う人がいるようですが、それは諦めてください(笑)

人前で演奏して緊張しないなんてムリ!(笑)緊張はするもの、して当たり前なんですから。

 

緊張に関する記事はこちら↓(ご参考までに)

 

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私自身の経験と、今まで見てきた緊張しやすい生徒さんたちの傾向を見ると、

(心の奥にある)自分に対する自信のなさや信頼感の低さが、緊張しやすさにつながっていると感じます。

 

人前で弾くとき緊張する、というときは、自分の外側(ここでは聴いてくれる人たち)に意識が向いているんですね。

 

そうではなく、自分の内側に意識を持っていくようにするんです。

 

それはつまり、自分に対する信頼感につながります。

そのために、深呼吸なりストレッチなどをするんです。

そして、弾いている時は自分のからだの感覚に意識を向けるようにする。

 

音楽は、それまで自分が練習し積み上げてきたものを信頼して表現することに集中する。

 

 

演奏中は、音楽に入り込み過ぎず、冷静な部分を残しておくと良いです。

自分を俯瞰する感覚

これも本当に大事です。

演奏中、一歩引いて自分の演奏を聴く。

これは、本当の意味で音を聴くことにもなります。

 

 

こうした感覚的なことは、何度も何度も経験してようやく身につくことかもしれません。

 

何度か書いていますが、ピアノに即効性を求めないことです。

そして決して諦めないこと。

 

自分は将来的にどんな演奏ができるようになりたいか?

 

ここが明確であれば、多少の大変さも乗り越えられるはずです。

 

 

 

 

大人こそ「自己受容」を

こんにちは。

 

最近、集中的に取り組んでいることがあります。それはピアノとは関係なく、公にはできないのですが、そこから関連して思ったことを書きます。

 

「自己受容」については、私は何度かここで書いてきましたが、今、日本の多くの子どもたちの心が危ないと、やはり感じるのです。

 

それはつまり、現代のほとんどの大人たちが「自己受容」できていないことが関係しています。

 

 

こちらの記事で、「毒親」についてチラッと書きましたが、、

 

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毒親」=自己受容出来ていない人です。

そしてさらに言えば、承認欲求が強い人です。

 

日本は承認欲求が強い人ばかりです。

つまり、毒親大国だということです。

 

・・・なんて、偉そうなことを書いていますが、何を隠そう、私も承認欲求が強い人間の1人です。

それはやはり、育った家庭環境が強く強く影響しています。

 

最近、ある信頼している人から、私の承認欲求の強さについて指摘されました。

自分でもそれなりにあると自覚していたので、「やっぱりか・・」と思ったのと同時に、「まだあったか・・・」とも(笑)。

今は、この承認欲求が弱くなるよう、日々自分と向き合っています。

 

 

 

 

 

自己受容が出来ていない人は、他者受容も出来ません。

それはつまり、他者を愛することができない、ということです。

自己受容=愛=他者受容だからです。

 

 

こんなにも自己受容できていない大人がほとんどです。

そのことに自分で気づいていない人ばかりです。

だから「自己肯定感」なんてものに走ってしまう人が多いのです。

「自己肯定感」なんて悪でしかないのに。。

間違っても、「子どもの自己肯定感を高めよう」なんて考えないでください。

(「子どもの自己肯定感を高めよう!」と謳った音楽教室はたくさんあります・・・)

 

 

自己受容できていない人が親になってしまったら、その子どももまた自己受容できないまま大人になってしまいます。

 

子どもたちは、「自分が傷ついているのだ」ということに気がついていません。

むしろ、大人(主に親)たちから認められようと、受け容れてもらおうと必至で頑張って生きています。

 

そのことにまた、多くの大人が気がついていません。

 

本当は皆、大人も子どももありのままで十分素晴しいのに。。

皆、すでに十分、素晴しいものを持っているのに。。

 

 

これはあくまで私の考えですが、親になっている人というのは、親になる必要があるから親になったのです。

子育てという作業を通して、子どもから「ありのままの自分で生きていていい」ということを学ぶために、子どもからそのことを「教えてもらう」ために親になったのです。

 

子どもたちに何かを「教えよう」としなくていいんです。

子どもたちはすでに、生きていくうえで最も大事なことを知っているのだから。

そのことを伝える術を持ち合わせていないだけなんです。

 

親子関係における子どもの役割とは、親の期待を「裏切ること」と、親に、人生におけるもっとも大事なことを「教える」こと。

 

同じく親の役割とは、子どもに「裏切られること」と、子どもに「謝ることで」です。

そう考えています。

 

 

親も未熟なひとりの人間です。

未熟だからこそ、たとえ悪気がなくても子どもを傷つけてしまいます。

(子どもを全く傷つけない親なんていません)

しかし、その傷が子どもの人生に多大な影響を与えるのもまた事実です。

そのことを「謝る」。

 

それができたら、親としての役割は十分果たしたことになります。

そして、子どもたちには思いっきり、私たち大人を裏切ってほしいです。

 

「大人の言うことを鵜呑みにしないで、イヤ、むしろ聞かないで、自分の頭で考えて自分がどうしたいかを一番に考えて行動するんだよ」と、以前から子どもたちに言っています。

 

 

大人の言うことを聞いてばかりいたら、その子は自分の人生を歩めないですから。

 

 

 

生きるということの本質を理解していない、理解しようとしていない大人に溢れた今の世の中で、子どもたちの自己受容を守るために、大人こそ自己受容を日々していってほしいです。

今の世の中は自己受容させないモノに溢れています

 

 

何度も書きますが、本当に、ほとんどの大人が本質的に生きていません。

 

 

大人が自己受容できていないと、子どもたちが本来持っている自己受容を守ることが出来ません。

 

だから、大人こそ自己受容が大事なのです。

 

親である人も、そうでない人も、子どもと関わる人もそうでない人もすべて、

自己受容の大事さを知り、日々自己受容していってください。

 

自己受容は、一生かけてし続けるものです。

一生かけてし続け、深めていくものです。

 

私はそう学びました。

私も、昨年までは自己受容なんて出来ていなく、「自己肯定感」にとらわれていました。でも、自己受容を知り、少しずつ自分を受容していったことで、ずいぶん生きやすくなりました。

 

わかったことのひとつは、生きやすくなるということは=良いことがばかりが起きる人生になる、ということではない、ということです。

 

今は不安定な世の中だから、多くの人が何かにすがり、何かを求め、祈ったり願ったり、祝ったり、あるいは期待したりしています。

「良いことが起きますように!」と。

 

でも、人生は思い通りにならないことの連続であり、良いこともそうでないことも起こるのが当たり前であり、そのひとつひとつの出来事とその時感じた自分の感情も受容することが大事なのだと、ようやくわかりました。

 

昔の人々(明治時代くらいまで)は、そんなふうに、毎日を「普通の日」として、地に足をつけて生きていたのだそうです。

(「誕生日」や「記念日」なんて存在していなかったのです。当然、バレンタインやクリスマスもです。)

 

 

私も、そんなふうに生きていきたいと思っています。

そして、日々自己受容を心がけ、これから先もそう生きていきますし、生きることの本質を学び続けていきたいと思っています。

 

 

 

厳しめなことを書きましたが、このままだと本当に子どもたちの心が危ないので書きました。

気づいてください。

なぜ私がこんなことを書いているのか、自分の頭で考えてください。

テレビとか見てる場合じゃないです。

(テレビは洗脳マシンです。テレビばっかり見ていたら、即、思考停止脳の一丁上がりです。まともなのは天気予報とスポーツくらいです)

 

 

 

頭を使う、という点は、ピアノと同じです。

ピアノは、頭で弾くものだからです。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。