音楽に寄せて 

街のピアノ講師が日々思っていることを綴ります

盲信はいけない

ちょっと思うことがあって批判覚悟で記事を書くことにしました。。

 

ときどき日本各地のピアノの先生のブログを読んでいるのですが、あるピアノの先生のブログから「ある奏法を教えているアヤシイ教室の見極め方」というような内容の動画を見つけ、そこからまた別のある教室の動画を見つけ、、、という感じでずーっと動画やブログを見ていて思ったことです。

 

最初にその先生のブログを読んだとき、かなり批判的で良い印象は持ちませんでした。

(気持ちはわかりますが、、)

でも、その先生なりに信念を持っているのだろうことと、「日本のピアノ教育界をなんとかせねば」という思いは感じました。(そこは共感)

 

私が学んでいる奏法と共通することも書いていたので、「はて?私が学んでいる奏法のことを批判しているのかな??」なんて思ったのですが、よくよく見てみるとどうやらちょっと違うようです。

 

批判対象となっているであろう教室の講師の方の演奏動画や、その教室に通っている生徒さんの演奏動画を見つけたので見てみました。

 

・・・・う~ん、、、前述した先生が批判したくなる気持ちがわかりました。。

批判対象となっているであろう教室の先生および生徒さんの演奏、ちょっとびっくりです。

手首が高すぎますし、「音色を大事にしている指導」をしているわりに、音色が単一であまり変わっていません。

動きが不自然で、だから音楽が不自然に聞こえます。

この先生、本当に音楽をわかっているのでしょうか??というのが正直な感想です。

素人と批判されても仕方がないレベルです。

ショ○ンのノ○○ーンなのに、、、(汗)という感じです。

 

 

音大卒ではないピアノの先生はたくさんいますし、私は音大卒かそうでないかよりも、大事なことは先生自身が学び続けていることだと思っているのでそこは批判対象ではないと思います。

(そもそも私は日本の音大は「・・・」だと思っています(汗))

ですが、本当に音楽をわかっているのだろうか??という演奏。。

過去に何回か地元でリサイタルを行っているようですが、、、(汗)

 

 

その教室に通う生徒さんの演奏で、「教室に通う前と後の演奏の変化の動画」もあったのですが、う~ん、、、

やはり手首が高すぎます。。動きが不自然で音楽が不自然。。音色の変化も??という感じです。

大変申し訳ないけど、聴くに耐えないです。。

これなら奏法変えずに独学の方がいいかも。。

 

その教室の動画の数も少ないので、なんとも言えない部分もあるのですが、

教室に通う生徒さんは先生を信頼して習っているわけですから、いい加減なことを教えてはならないと思います。

 

 

奏法もいろいろ、先生もいろいろだなぁという話ではないです。

これは指導者としてあってはならないレベルです。

 

私も奏法を変えた身で、ハイフィンガーを教えている教室に対してはアンチです。

最終的に大事なことは奏法ではないこともわかっています。

 

演奏は、聴いてくれる人があって成り立つものですが、聴衆にとっては「何の奏法による演奏か?」なんてどうでもいいことです。

専門的に学んでいる人にとっては、奏法の学びのために聴くこともあると思いますが、

大概の人にとっては「何の奏法か」なんて知ったところでよくわからないですから。

音楽を楽しむために聴くんですから。

 

習う人は、「~奏法を学んでいる」ことよりも、「自分が表現したい音楽を表現できるようになるために習っている」という意識でいるほうが大事だと思います。

また、奏法や自分の先生を盲信してはいけないと思います。

これは私自身が心がけていることでもあります。

 

 

「自分はピアノでどんな音楽を表現できるようになりたいのか?」を自分の中でしっかり明確にすることです。

 

 

「本物」をたくさん聴いて「本物がわかる耳」が育ったり、自分の演奏を客観的に聴ける耳が育ってくれば、批判対象となっている教室に通う生徒さんも目が覚める時がくるかもしれません。

しかし、井の中の蛙状態だとずっとその教室に通うことになり、インチキを教えられたままです。

 

残念ながら、そのような演奏に対してもそれなりに評価をされているのですから、やはり日本はまだまだだなぁというのが一番に感じました。

 

やはり、日本のピアノ教育は変わらないといけないと思います。

いまだにハイフィンガーを(ハイフィンガーと知らずに)教えている教室があることや、今回取り上げた教室のように、インチキレベルの指導で教えている教室があるんです。

生徒さんのほとんどは、そうしたことを知らないで通っているわけです。

そして習っていることやその成果を動画で披露したりブログの記事にして、「いいね」や☆をもらっているのですから、その罪は大きいです。

そうした演奏が良いのだと思う人がいるということの表われだからです。

 

 

本当に質の良い指導をしている先生は、今の日本では少数でしょう。

私も偉そうなこと書いていますが頑張らなければと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

上達のために大切なこと

生徒から「ピアノが上手になるためにはどうしたらいいですか?」と質問を受けたときのこと。

なんでも、学校からの宿題で職業インタビューをするんだとか。

ピアノの先生って一般職と違いちょっと珍しいからか、興味を持ってくれたみたいです。

で、私は先の質問に対しこう答えました。

 

「ピアノ以外のことに興味を持って世界を広げることだよ」と。

 

このときの生徒さんの「えっ??ナニソレ???」という感じでびっくりしたような表情が印象的でした(笑)

予想外の答えだったみたいです。そりゃそうだよね(^0^;)

 

 

でも本当にそうなんですよね。

毎日ピアノに向かって弾いていれば上手になるかというと、どっこいそうでもないんです。

 

 

 

指が強くなれば~、とか、リズム練習とか、どうしても指重視な場合が多いようですが、そうじゃないんです。

あと、奏法を変えれば、というのも(汗)。。。

 

 

私は奏法を変えたおかげで格段に弾きやすくなったので、こんなこと書くのも変な話なんですけどね。。

 

私の場合は、今の奏法が自分に合っていた、というのがあります。

それは練習方法とかも含めてです。

何より私自身の音楽的価値観とピッタリなんです。

ずっと探し求めていたもの、という感じです。

だから、あくまで私にとっては「本物だ」というだけです。

 

そもそも、奏法を変えるとは、耳を変えるということ

ただ弾き方を変えればいいわけじゃあないんです。

 

音の聴き方、音に対する感性を変えていくこと、だと思います。

 

奏法を変えたことによって、今まで見えていたピアノの世界がガラリと変わって、それがピアノを弾く楽しさにつながって、今はそれまでのピアノ人生の中で一番楽しいんですが、同時に、「ピアノを弾くということとは?」「音楽とは、芸術とは何か?」ということを今までよりも深く考えるようになりました。

考えずにはいられなくなったという感じです。

 

 

そんな中で思うのは、ピアノが上手になるためには、ただ指が強くなればいいわけでもなく、奏法を変えればいいわけでもなく、

自分で自分を育てていくことが一番大事なんじゃないかと思うようになりました。

 

 

どんなに指が強くなってよく動くようになっても、弾く人自身の感性が育っていなければ、心動かされるような素敵な演奏にはほど遠いでしょう。

 

奏法を変えれば、あるところまではいけるとは思うけど、それもやはりその人次第のところはあると思います。

特に音色に関しては、弾く人の感性にかかっています。

 

 

留学時代、明らかに自分よりも「(単に「弾く」という意味での)テクニック」はずっと上なのに、なんとも味気なく「音楽がない」演奏を聴いたことがあります。

譜読みはすごく早いし、指はよく動くから難曲も弾きこなしてしまうのに、です。

その人自身も自分でわかっていたようで、自分で「ワタシの問題は音楽性なの」と言っていました。

 

きっとその人は、子どもの時からそれまで、「弾くこと」ばかりの訓練を受けて来たのでしょう。

指がよく動くように、速く楽譜が読めるように、ミスなく弾けるように

 

もしその人が、音をよく聴くことや自分の頭で考えたり感じたりしながらピアノと向き合っていたら、きっと素晴しい演奏を聴かせてもらえたと思います。

ただその人は自分の音楽性に問題があると気づいていながらも、感性を磨く努力をしなかった。

その後はどうされたのかわかりません。

 

 

 

 

大事なことは、その人自身が、能動的に自分を育てていくことです。

具体的に言うと、先述したように耳を変えること、音に対する感性を育てることが最重要かと。

 

そのためには、ピアに向かう以外の時間がとても大切になってきます。

 

ピアノ以外の楽器や声楽作品などを聴くこと、できるだけたくさん(自分よりも上手い)他の人の演奏を(可能なかぎり生で)聴くこと、本を読むこと、自然に触れること、音楽以外の芸術にも触れること

まだ他にもありますね。

私は、普段の生活の中や、他の人が見逃してしまいそうな些細なことに感動できることが大切だなと思っています。

それは毎日の何気ない景色だったり、ふと目にしたり耳にした他人の言動だったり。

 

こうしたことの積み重ねが、あなたの音楽を育てていくのです。

 

だから、ピアノに向かう以外の時間も大切に。

むしろそちらの方が大事です。

 

 

弾く人の耳と心と頭とからだがひとつになって、ようやくなんです。

つまりは感性もテクニック、なのだと思います。

イマジネーション、想像力とも言えます。

 

 

指が動くようになるだけでは、ピアノは本当には上手になりません。

奏法を変えることも同じです。

 

 

最終的にはあなた次第。

 

あなたが自分で自分をどこまで育てていけるかに、かかっているのだと思います。

 

 

 

 

等身大

あるピアノの先生の曲目解説動画で、作曲家の言葉を紹介しているものがありました。

それは、ロマン派の作曲家シューマンの言葉で、

 

「易しい曲を上手に綺麗に弾くように努力すること。そのほうが難しい曲を平坦に弾くよりましだ」

 

というもの。

 

その先生も、「今の自分のレベルの手の内にあるものを選び、奥深くまで楽譜を読み込んで、表現するということを可能な限りどこまでも追求した演奏は、技術的なレベルなんて関係ないと思うほど感動的なものになります。そして演奏者自身の音楽的理解が深まるとともに、表現するということが身についてきます。」とおっしゃっていました。

 

また、「もちろん、技術をつけるための訓練や、時には少し背伸びして必至に楽譜に食らいついていく経験も必要だとは思いますが、それだけでは音楽性は備わりません。」ともおっしゃっていました。

 

まったく同感です。

 

いつもいつも自分の実力以上の曲ばかり弾いていては、「弾くこと」に一生懸命になり、音色についてや表現、音楽の流れなど、大事なことがおろそかになってしまいがちです。

 

これは私自身の経験から言っているところでもあります。

 

自分自身を見つめ、知り、今の自分はどんな曲が弾けるだろう?と立ち止まって考える時間を持つことは大事なことです。

 

 

大人初心者の方の多くは、大人になって初めてピアノを習っているので、経験者よりも壁にぶつかること、指が思うように動かないこと、譜読みのことなど、きっと多くの悩みがあると思います。

しかし、そうした大人初心の方は、最終的に弾きたい曲はそれなりに高いレベルのものを掲げていながらも、背伸びし過ぎず、今の等身大の自分を受け容れながらご自分の力であれこれ試行錯誤してピアノと向き合っている人が多いと私は感じています。

 

長い目で自分を見ている。

 

ひとつの理想的なピアノとの向き合い方をしていると思います。

大人初心者の方の強みだと思うので、どうぞそこに自信を持ってこれからもピアノを弾いていっていただきたいですね。

 

少し話が逸れましたが、今の等身大の自分が弾ける曲と全力で向き合う、取り組んでみる経験を、ぜひ1度はしてほしいです。

 

その曲が、自分で思っているよりもずっと易しい曲だったとしても、楽譜と向き合うことの大切さ、一音一音音を聴きながら弾くことの大切さなど、多くのことが学べるはずです。

そしてその曲と全力で向き合った後は、一回り成長した自分に出会える可能性は高いでしょう。

 

 

音数(おとかず)が少ない曲って、ごまかしが利かない分、美しく弾くのは案外難しいものです。

ピアノ学習者なら誰もが1度は通る『ブルグミュラー25の練習曲』だって、本当に美しく弾こうとしたらそう容易ではないんですよ~。

 

 

この記事を読まれた人はぜひ、今の自分はどんな曲がふさわしいだろう?と考えてみてください。

それではまた。Viel Spaß!

 

 

 

 

 

人と人をつなぐもの

発表会が終わりました。

 

今年は体力的に大変でしたが、なんとか乗り越えることが出来ました。

演奏は、自分の中で反省点あり、楽しく弾けたところありと、いろいろですが、総合的には楽しめました!

毎回なにかしらやらかしてしまうのは昔から。。でも次に生かせば良い!とすぐに気持ちを切り替えられたのでまた頑張ります。

演奏が上手くいこうとそうでなかろうと、やっぱりピアノが好きな気持ちに変わりはなく、というよりますます好きになってしまうこの魔力はなんなのでしょう(笑)

 

 

会の後半、ピアニストとして活躍している方々の演奏は「さすが」のひと言。

たった1台のピアノなのに、ひとり一人奏でる音が違うのも面白く、本当に興味の尽きない楽器ですね。

今回は友人や普段お世話になっている方々がいらしてくれて、サプライズもあり、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。

 

昔から思っていたけど、やはり音楽は、人と人をつなぐものですね。

もしピアノをやっていなかったら、私の人生はどんなものになっていたのだろう??

ピアノのない人生なんて考えられないです。

 

ひとりの音楽家としては広い視野を持って音楽に携わる必要がありますが、

ひとりの人間としては、大切な人たちとつながるためにピアノを弾いているのだと、思ったのでした。

 

大切な生徒から「先生が弾くピアノの音が大好きです」と言われ、また頑張ろうと思いました。

ありがとう。これからも音楽で返していきます。

 

まだ疲れが取れないので今回は短め。

ですが感謝の気持ちを持ってこれからもピアノを弾いていきます。

 

 

 

 

軸を持つ

発表会本番前の最後のレッスンがありました。

 

最近忙しさからかからだが疲れており、練習もあんまりな状態でした。

細かな練習を積んでいたので、演奏には影響はないものの、

疲れて練習できないとき、どうしたら良いですか?と聞いてみたら、

意外な答えが返ってきました。

 

それは、「(広い意味での)音楽とは何かを考えること」というもの。

 

自分にとって、ではなく、もっと広い視点を持って、「音楽とは何か?」を考えることだと。

 

そういうふうに軸を持っているとぶれない演奏が出来るというのです。

逆に言えば、軸がない人はぶれる、ぶれた演奏をする、ともおっしゃっていました。

 

音楽だけじゃなく、社会とか、愛とは何かとか、いろいろなことを考えることも大事だと。

 

先生がおっしゃっていたこと、なんとなくわかります。

広い意味で音楽とは何か?というのも、なんとなくですが、自分の中でちゃんと軸を持っている感覚があります。

(これを明確に言葉にできるようになれば、もっとぶれなくなるのかもしれません)

 

疲れて練習ができないときどうしたらいいか?という質問は、聞いてみたいと思って用意していました。

もっと実用的な(?)練習方法を示してくれることを密かに期待していたのですが(いけませんね)、想定外な答えで驚きつつも、弾いているときにどういう意識でいるかは非常に大事だとわかっていたのでなんだか納得です。

 

本番を直前に控え、少々緊張気味だったのが、ふっと力が抜けました。

もうそんなに一生懸命練習しなくても、自分の中で軸を持っていれば良いのだから大丈夫だ、という感じです。

 

本番はべーゼンドルファーです。

なかなか扱いが難しく、美しい響きで弾くのは簡単ではない楽器です。

半年以上ぶりに先生宅のべーゼンを弾いたら、前回弾いた時よりも豊かな響きで弾けるようになっていて良かったです。

なぜ出来るようになったのかは自分でも謎ですが。。。

 

ここ2週間ほどは、とにかく音の行方を追うことを重視して練習していたのと、

どういう意識でいるかを意識的にしていたので(変な日本語かな💦)、それが良かったのかもしれません。

ただただ単に「弾けるようになろう」としていたら、良い響きでは弾けないからです。

 

学生時代と違い、そんなに練習時間を取れなくなってきて、昔のように大曲に手を出すこともなくなりました。大曲は長いですしね。

 

でも、自分が心から好きで、かつ等身大の曲を弾くようになったら、響きについて深く追求する余裕ができ、楽しいのです。

ずっと同じ曲を弾いていも、飽きることがありません。

弾けば弾くことほど、響きが良くなっていくのでそのたびに新しい発見もあるからです。

 

奏法を変えて数年経ちますが、やはり変えて良かったです。

それなりに年数はかかったけど。。

ようやく、最低限のラインに立てるようになった気がしています。

 

本番は、親しい友人やお世話になっている人など、来てくれます。

時間をさいて聴きに来てくれるのです。

軸を持って、良い演奏ができるように頑張ります。

 

 

 

思いを馳せる

久しぶりに記事を書きます。

 

2月に門下の発表会があり、今はそれに向けて練習の毎日です。

本番が近づくにつれ、練習をいつもとは違う方向性からやっているのですが、

そうすると新しく見えてくることがあります。

 

今回はラフマニノフのプレリュードと、シューベルト=リストの小品を弾くのですが、

ラフマニノフはやはりオーケストラとして捉える必要性があること、シューベルト=リストは、リスト編曲だけど原曲がシューベルトなのだから改めて原曲の歌曲を聴き、その詩と音楽の世界観を理解することが大切だ痛感しています。

 

ラフマニノフは、一見するとただただロマンチックな音楽だと思われがちですが(特に今回私が弾く曲は、、)、その本質を見極めると、ロマンチックなようで、ラフマニノフの心象風景を音楽にしているように私には感じられるのです。

 

冬のロシアの情景に、ラフマニノフの内面を重ね合わせている、そんな感じがしてならないのです。(ロシア、行ったことないけど、、めっちゃ寒そう!)

 

ラフマニノフは、2メートル近い身長でなかなか体格の良い人だったようですが、内面は非常に繊細だったようです。

音楽にもやはりそれが表われていて、もしひと言でラフマニノフの音楽を表すとしたら、私なら「哀」という漢字一文字を使いますね。

 

朗々とチェロのように歌い上げる必要があるパート、息の長い旋律などは、単に「弾く」だけではなかなか難しく、伸びのある音を必要としているのでそういった技術を学ぶことが出来て大変勉強になりました。

 

ピアノ曲だけど、楽譜をもっと立体的に捉えて、オーケストラのスコアを見るような感覚で見たり、実際にラフマニノフ交響曲を聴いたりしています。

 

もう一つのシューベルト=リストは、原曲のドイツ語の歌詞のアクセントを意識しながら旋律を歌わせることが大切で、最初は慣れずに四苦八苦💦

左手に旋律が来ることが多いので余計でした。。

 

日本では一般的にはそんなに知られていない曲だけど、YouTube上では結構演奏を上げている人が多いですね。

リスト編曲だからか華やかに演奏している人もいるし、地味目に弾いている人もいるしで、本当に様々です。

 

私は詩の内容から、なかなか繊細さを要求される曲だなと最近になってわかり💦、

今はそう表現できるよう取り組んでいるのですがこれがなかなか(>_<)

ひとつ出来たと思ったら、レッスンではまたさらに上のことを要求されるので、

「芸術の世界は甘くない!」と改めて思ったものです。。。

 

そんな日々の中、最近思うのは、作曲家たちが生きた時代に思いを馳せることの大切です。

 

ラフマニノフシューベルトは、時代や国が違うことはありますが、現代と比べたら

明らかに、圧倒的にモノも情報の量も違いますね。

 

これは子どものときから思っていたのですが、もしバッハやベートーヴェンが生きた時代が、現代のようにモノや情報に溢れていたら、彼らはきっとあんなに素晴しい作品を残さなかったと思います。

 

昔は、娯楽と言えば本や音楽ぐらい?

テレビやスマホ、ゲームなんかは当然なかったわけで。。

モノや情報が極めて少なかったからこそ、心は現代人よりもずっと豊かだったのでは?と思うのです。

病気で亡くなる人も多かったと思うし、普通に生きているだけでも苦しいことが多い時代だったと思います。

 

でも、だからこそ音楽(芸術)が求められていたのだと思います。

 

芸術は、苦しみ、悲しんでいる人たちのためにあると、教わりました。

芸術が求められ、花開いた時代を思えば、納得です。

 

 

 

また、作曲家たちがどんな人生を歩んだか、どんな性格だったか?を知り、想像を膨らませることも大事ですね。

 

もしベートーヴェンが、生まれ育った環境が健全で耳が健康なままで好きな人と結婚して幸福に満ちた人生を歩んでいたら、あの素晴しい第九や後期のピアノソナタは生まれなかったでしょう。

 

もしシューベルトが、外交的で積極的なタイプで、健康を害することなくそれなりに(?)年を重ねていれば、あの若さで「死」を感じさせる作品を生み出さなかったかもしれません。

 

他にも、ショパンシューマンブラームス、今回弾くシューベルトラフマニノフなど、(私が好きな作曲家は)内向的で極めて繊細な人が多い印象です。

(だから音楽家になったのかな?と思ったりも。。)

 

作曲家たちが生きた時代に思いを馳せ、彼らがどんな人生を歩んだかを想像することは、作品を演奏するうえでやはり大切なことだと、私自身改めて思いました。

 

大作曲家とはいえひとりの人間として生きたのです。

どんな人が書いた作品で、どんな思いが込められているのか?どんな音楽なのか?

そして、だからどんな音が求められているのか?

 

子どもたちにもそのことをまた伝えていきたいですね。

 

 

 

 

 

繊細な感覚

ピアノで音色や美しい響きを求めるようになってから、この楽器はなんて繊細なんだと思うようになりました。

 

何年も前、自分の先生がブログで、「ピアノを熟れたトマトや絹ごし豆腐だと思って弾くように」と書かれていたのですが、その言葉の意味がようやくわかってきたところです。

 

柔らかくベールをまとった響きを出せるようにと、日々PP(ピアニッシモ)で、とにかくゆっくり弾く練習をしています。

響き重視、優先なので、テンポ良く進まないし、かなり辿々しいしリズムも崩壊しているんですが、とにかく音をよく聴きながらなのでどうしてもそうなってしまいます。

 

で、「お!これはイイ感じかも?!」(ただしあくまで自分の感覚で)というような響きが出せたときというのは、からだの内側が非常にリラックスしているし、指先も手の内側も鋭敏な感覚です。

 

これは、いわゆる「指弾き」で弾くときとはまったく違う感覚です。

指は確かに使うのですが、指先の感覚は非常に繊細さを必要とするし、手の平の内側がかなり大事なのです。

言語化するのが私の語彙力では難しく、そこは申し訳ないのですが、響きを感じられるようになると、手の平の内側を意識せずにはいられないのです。

 

そしてびっくりするくらい、楽です。

非常に楽で省エネルギーで弾くことが出来ます。

ガツガツと、あるいは「頑張って」弾く必要はないんだなとわかります。

 

繊細で楽な感覚を、常に維持できるレベルではまだない私は、まだまだ気が遠くなりそうなのですが、とにかく弾き手に繊細さを必要とするのは間違いなさそうです。

 

耳もそうですね。

 

基音だけ聴いているときよりも、もっと繊細な聴き方が必要です。

基音の外側にある倍音をたどっていくのですから、当然なのでしょう。

(そもそも、音って目に見えないし。。)

 

 

私は、従来の弾き方のほうが年数的に圧倒的に長く、今の奏法のほうは「ようやく小学校低学年になった」くらいの年数です。

 

だからどうしても、つい気が抜けると(?)、よろしくない音で弾いてしまうんです、未だに。。

 

 

先生から言われたことがすぐにわかることはあまりなく、数ヶ月後とか、数年経って「あれはこういうことか」とわかることのほうが多いです。

ようやくわかったぞ!と思ってもまた戻ってしまうことなんてしょっちゅうだし、一進一退の繰り返しです。

 

今回書いた「繊細さ」については、以前よりも理解がより深まって、防備録も兼ねて書きました。

 

ピアノは、鍵盤を押せば誰でも(ネコでも)音が簡単に出る(出てしまう)けど、

美しい響きをまとった音色というのはそう簡単に出せるものじゃないんだな、と改めて思ったのでした。

 

 

このことは何度も書いていますが、何年もかけて耳と手を育てることが本当に大事です。

即効性を求めて安易にリズム練習を取り入れたり、指の独立を目指すと、美しい音色とはかけ離れた、音楽的でない音で弾き続けてしまいます。

 

ピアノは簡単に音が出てしまうからこそ、音に対する繊細な感覚を、時間をかけて育てていく必要があるのだと思います。

 

そして、それを担うのが私たちピアノ指導者です。

先生自身が学び続け、音楽やピアノをやることの本質とは何かを問い続けることです。

それを生徒さんたちにレッスンを通して伝えること。

 

今の世の中は洗脳だらけです。

多くの人が「良い」と言っているからといって、それが「本物」とはかぎりません。

むしろそうでない場合が圧倒的に多い。でもそのことに気づいていない人もまた多いですね。世の中のほとんどの人がそうなのではないでしょうか。

 

残念ながら、ピアノ教育の世界でも、洗脳されていることがまだまだ多いと感じています。

先生ご自身がその洗脳に気づいていないのだから、習いに来る生徒さんたちにも伝わらないのは当然で、それが質の良くないレッスンが多々行われていることにつながっているのだと思います。

 

洗脳とニセモノだらけの今の世の中で、何が本物で本質的なのか。

 

それがわかる人がひとりでも多く増えてくれるといいなと思っています。

 

最後はちょっと脱線してしまったけど、大事なことなので書きました。