音楽に寄せて 

街のピアノ講師が日々思っていることを綴ります

落ち込んだとき

ピアノを続けていると、誰かやプロの演奏と比べてしまったり、あるいはなかなか上達しない自分に対して落ち込んでしまうときが、あるかと思います。

 

今日は、あくまで私自身の経験談ではありますが、そんなときに少しでもお役に立てればと書きますね。

 

 

 

私は手が女性にしてはかなり大きく(身長があるため)、指が長いのですが、

そんな自分の手が嫌いで仕方がなかったときが長くありました。

ほんの数年前までです。

 

 

「手が大きくて指が長いなんて、ピアノに向いていていいね」なんてよく言われますが、とんでもない!

長すぎる指は小回りが利かなくて速くて細かいパッセージは苦手でしたし、ふにゃふにゃの手は和音さえもまともな音で弾けませんでした。

 

大学時代はそのことでずいぶん苦しみましたし、泣きながら弾いていたことも何度もありました。

周りを見渡せば上手い人ばかり。みんな難しい曲を弾きこなしている(ように見えました)。

「こういう音で弾きたい」とか「こういう音楽を奏でたい」という欲求はあふれるほどあるのに、思うように弾けない自分に対して何度落ち込んだか知れません。

 

レッスンでは、少しでも指摘されると落ち込んでいましたね。

「自分は下手なんだなぁ」って。

 

もうね、私のピアノ人生における落ち込み歴史を語ろうとしたらとても記事ひとつじゃ足りないくらいです(笑)

でも、今回はそんなことを伝えたいのではないので、この辺にしておきます。

 

 

そんな私でしたが、あるとき、自分の出来なさ、才能のなさ、下手さを受け容れるようになってから、ミスがあったりレッスンで指摘されても、落ち込まなくなりました。

それは、あるピアニストの方の言葉がきっかけでした。

 

「(現在師事している)○○先生とあなたは、そもそも経験年数が違います。だから筋肉量が足りないことはもちろん、出来ないことがあって当たり前。○○先生はこの道を何十年と研究し続けてきたのだから。」

 

といった内容の言葉でした。

 

ハッとしましたね。確かに、その通りだと。

 

出来ない自分に対して落ち込んでしまうとき、私の場合ですが、心のどこかで自分に対して期待をかけてしまっていたのかもしれません。

あるいは「本当は私はデキルんだ」なんて思い上がっていたのかもしれません。

でも、「自分は大したことないんだ」と諦めたとき、なんだか肩の力が抜けたのです。

 

 

 

自己受容とは、「諦めること」だと認識しています。

 

こんな未熟でダメな自分がいる、出来ない自分がいる等々、そんな自分を明らかにすること=諦めること

 

 

それ以来、嫌いだった自分の手のことは気にならなくなりましたし、

ミスをしても、出来なさを指摘されても、落ち込まなくなりました。

何より笑って受け容れるようになりました。

「あはは、そうですよね😂」って。

 

自分の変わりようにちょっと驚きますが、受容することはとても大事なことだと思います。

 

これは、ピアノ以外、生きていくうえでも非常に大切なことです。

 

 

自分の良いところや出来ているところを認めることも大事なことですが、それだけだとインチキ自己肯定をしてしまいます。

それだけではなくて、自分のダメなところや出来なさ、未熟さも受け容れるのです。

「臭いものに蓋をしない」のです。

 

 

結構、がっくりしますよ(笑)

「あぁ、こんなかっこ悪い、ダサい自分がいるのか・・」と。

 

でも、不思議なほど心が穏やかになります。

 

 

 

誰かの参考になれば幸いです^^

 

 

 

追記:私が現在師事している先生も、上述の言葉をかけてくれたピアニストの方も、私が知る限り、素晴しい音で魅力的な演奏をしている人は皆、過去に何度も涙を流しながらピアノに向かっていたと聞いています。ピアノに対して真剣であればあるほど、苦しいことのほうが多いのかも知れません。