音楽に寄せて 

街のピアノ講師が日々思っていることを綴ります

受け容れる

最近、自己受容について書いています。

その理由のひとつが、「自己肯定感を育てます」という謳い文句を掲げている音楽教室やピアノ教室が割と多くあるからです。

 

私は以前から、このことに関して強い違和感を感じていました。

何故なら、そもそも自己肯定感という概念が邪念でしかないからです。

 

 

ある音楽教室では、とにかく生徒を褒めることを強調していました。

 

とにかく褒めて褒めて、褒めること。

子どもたちは褒められて、「自分はピアノが弾けるんだ、上手いんだ」と思うことによって自己肯定感が育ちます。

 

と、宣伝しています。

 

 

・・・う~ん、おかしいとしか思えません。。。

 

 

自分を素晴しいと思うことは、ある意味では大切なことです。

自分を大切に思う心が、他者を大事にすることにつながるからです。

 

でも、自分の良い面、出来る面だけを見ていると、それは単にインチキになってしまいます。

 

子どもを褒めることは、使い方によっては大事だと考えていますが、褒めてばかりはどうかとも思っています。

褒められてばかりいると、他者の存在を拠り所にしてしまいます。

そうなると、承認欲求の強い人間に育ってしまう可能性がある。

また、ピアノにおいて、「上手く弾けたとき」や「難しい曲が弾けたとき」に褒められていると、「出来なかったとき」や「(難しくはないけど)自分の好きな曲を弾いたとき」に「自分は価値がないのか?」と思いながらピアノを弾き続けてしまう可能性があります。

 

 

子どもたちと接していていつも思うのは、どんな子も、どんな時でもそれぞれが大切で価値のある存在であり、ただいてくれるだけで人間は素晴しいのだということを教えてくれているように感じるのです。

 

だから、何かが「出来たとき」「上手く出来たとき」に褒めることに違和感を感じてしまうのです。

 

「じゃぁ、何かが出来ないとき、失敗したときは価値がないの?」と。

 

 

私が考える自己肯定感とは、自分以外の外側から何かを得ようとし、それによって自分は価値ある存在なのだと思うことです。

依存的な生き方ですね。

 

 

でも、最近書いている自己受容は真逆です。

自分自身を拠り所にし、ダメな自分も良い自分も全部まるごと受け容れること。

 

エネルギーの方向性が違うのです。

 

 

自己肯定感を高めようとやっきになる生き方、人生は、外側に依存した生き方であり、私だったら疲れてしまいます。

 

でも、自己受容は、足るを知る生き方であり、地に足をつけた生き方です。

それは、他者が「させる」ことはできません。

自分自身でおこなうことであり、一生かけて続けていくこと。

 

 

何かが出来る自分だけでなく、何かが苦手で出来ない自分もまるごと受け容れてくれる人に出会ったら、涙が出るほど嬉しくないですか?

 

それを自分で自分に対しておこなうのです。

そうすることによって、「自分は存在していていいんだ」と自分に対する安心感が生まれ、厳しい人生に対しても立ち向かっていくことができるのです。

 

 

私も、ピアノのレッスンの場において、子どもたちへの接し方は「これでいいのだろうか」と思いながらです。

ただ、いつも心に留めているのは、ピアノに出会ってくれたことや子どもたちの存在そのものに対する感謝の気持ちと、「キミはそのままで十分素晴しいよ」と言葉だけでなく態度でも伝え続けるということ。

 

子どもたちに対して、私たち大人が受容的な在り方でいて、ひとり一人が大きくなったときに自分で受容できるように接すること。

 

そう考えています。