久しぶりに記事を書きます。
2月に門下の発表会があり、今はそれに向けて練習の毎日です。
本番が近づくにつれ、練習をいつもとは違う方向性からやっているのですが、
そうすると新しく見えてくることがあります。
今回はラフマニノフのプレリュードと、シューベルト=リストの小品を弾くのですが、
ラフマニノフはやはりオーケストラとして捉える必要性があること、シューベルト=リストは、リスト編曲だけど原曲がシューベルトなのだから改めて原曲の歌曲を聴き、その詩と音楽の世界観を理解することが大切だ痛感しています。
ラフマニノフは、一見するとただただロマンチックな音楽だと思われがちですが(特に今回私が弾く曲は、、)、その本質を見極めると、ロマンチックなようで、ラフマニノフの心象風景を音楽にしているように私には感じられるのです。
冬のロシアの情景に、ラフマニノフの内面を重ね合わせている、そんな感じがしてならないのです。(ロシア、行ったことないけど、、めっちゃ寒そう!)
ラフマニノフは、2メートル近い身長でなかなか体格の良い人だったようですが、内面は非常に繊細だったようです。
音楽にもやはりそれが表われていて、もしひと言でラフマニノフの音楽を表すとしたら、私なら「哀」という漢字一文字を使いますね。
朗々とチェロのように歌い上げる必要があるパート、息の長い旋律などは、単に「弾く」だけではなかなか難しく、伸びのある音を必要としているのでそういった技術を学ぶことが出来て大変勉強になりました。
ピアノ曲だけど、楽譜をもっと立体的に捉えて、オーケストラのスコアを見るような感覚で見たり、実際にラフマニノフの交響曲を聴いたりしています。
もう一つのシューベルト=リストは、原曲のドイツ語の歌詞のアクセントを意識しながら旋律を歌わせることが大切で、最初は慣れずに四苦八苦💦
左手に旋律が来ることが多いので余計でした。。
日本では一般的にはそんなに知られていない曲だけど、YouTube上では結構演奏を上げている人が多いですね。
リスト編曲だからか華やかに演奏している人もいるし、地味目に弾いている人もいるしで、本当に様々です。
私は詩の内容から、なかなか繊細さを要求される曲だなと最近になってわかり💦、
今はそう表現できるよう取り組んでいるのですがこれがなかなか(>_<)
ひとつ出来たと思ったら、レッスンではまたさらに上のことを要求されるので、
「芸術の世界は甘くない!」と改めて思ったものです。。。
そんな日々の中、最近思うのは、作曲家たちが生きた時代に思いを馳せることの大切です。
ラフマニノフとシューベルトは、時代や国が違うことはありますが、現代と比べたら
明らかに、圧倒的にモノも情報の量も違いますね。
これは子どものときから思っていたのですが、もしバッハやベートーヴェンが生きた時代が、現代のようにモノや情報に溢れていたら、彼らはきっとあんなに素晴しい作品を残さなかったと思います。
昔は、娯楽と言えば本や音楽ぐらい?
テレビやスマホ、ゲームなんかは当然なかったわけで。。
モノや情報が極めて少なかったからこそ、心は現代人よりもずっと豊かだったのでは?と思うのです。
病気で亡くなる人も多かったと思うし、普通に生きているだけでも苦しいことが多い時代だったと思います。
でも、だからこそ音楽(芸術)が求められていたのだと思います。
芸術は、苦しみ、悲しんでいる人たちのためにあると、教わりました。
芸術が求められ、花開いた時代を思えば、納得です。
また、作曲家たちがどんな人生を歩んだか、どんな性格だったか?を知り、想像を膨らませることも大事ですね。
もしベートーヴェンが、生まれ育った環境が健全で耳が健康なままで好きな人と結婚して幸福に満ちた人生を歩んでいたら、あの素晴しい第九や後期のピアノソナタは生まれなかったでしょう。
もしシューベルトが、外交的で積極的なタイプで、健康を害することなくそれなりに(?)年を重ねていれば、あの若さで「死」を感じさせる作品を生み出さなかったかもしれません。
他にも、ショパンやシューマンやブラームス、今回弾くシューベルトやラフマニノフなど、(私が好きな作曲家は)内向的で極めて繊細な人が多い印象です。
(だから音楽家になったのかな?と思ったりも。。)
作曲家たちが生きた時代に思いを馳せ、彼らがどんな人生を歩んだかを想像することは、作品を演奏するうえでやはり大切なことだと、私自身改めて思いました。
大作曲家とはいえひとりの人間として生きたのです。
どんな人が書いた作品で、どんな思いが込められているのか?どんな音楽なのか?
そして、だからどんな音が求められているのか?
子どもたちにもそのことをまた伝えていきたいですね。